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月 の 上

感情には量がある

風邪をひいて鼻が痛い。昨夜遅く自転車で、寒い中汗まみれで走っていたせいだと思う。去年ジョギングをしていた頃と違い、自転車で走ると考え事をする暇がない。車に注意し、道を覚え、景色を見るのに精一杯で、だから余分な考え事や感情からの逃避に向いている。

身体を動かしていると、自分がいかに非合理的で非効率であるかを自覚する。計画と命令によってしか動かず、その命令すら完遂することは難しい。他人に追い越されたとき、その効率を羨む。彼の挙動には計算が、正しく練られた精確と振る舞いが、初めからインストールされているのではないか。

正しく振る舞う人を見るとき、僕は美しい獣を見ている気分になる。彼らは僕の持ってない能力を持っていて、余計な布を纏わずとも生きてゆける強い筋肉と美しい毛皮を持ち、何よりも言葉を持たない。彼らは僕の言葉を解さず、そうしてコミュニケーションができないから、僕らは彼らの知性を奪う事ができない。人間には失われてしまった効率が、神与の命令が、白銀のバランスが、彼や彼女には備わっている、あるいは単にそう見えるだけなのかもしれないが、僕は僕の目に見えないあの振る舞いの向こう側に、自分の足りない要素を夢想してしまう。だから僕は、自分ではスポーツには興味が無かったし、運動部にも友人は少なかったが、試合だけじゃなくて、彼らの日常の挙動を、素早く洗練された眼球と筋肉の動きを見るのが好きだった。

知性についても同じ事を思う。
僕が好きになる人々は大抵、感情の強い、大きい、量の多い人達だ。

感情には量がある。
正確には量と強さがあって、それぞれは別の意味を持つ。
境遇の似た2人の人間がいて、同じ出来事が起き、同じ強さの感情が起こったとしても、それぞれが外部にもたらす影響やエネルギーの量が異なる事がある。

人間を測る感情の尺度は、その人が生涯で持ちうる感情の合計量と、一時々々の濃度、最大風速、そして単位時間当たりの平均流量などがある。
平均流量の多い人を、僕は感情が大きいとか、感情の量が多い人と呼んでいる。

僕の見知った僕の好きな人達は、感情の大きい人が多い。
怒りに任せて長大なプログラムを書いたり、ちょっとした日常の喜びから何千文字ものブログ記事を書いたりするし、歌も歌えば空も飛ぶ、国境も越える、僕に想像もできない明白な意思と膨大な感情で、奇跡を起こして神秘を振り撒く。
そんな人々と触れていると、僕は自分の感情がひどく薄く感じられる時がある。もしあれらが人間だとしたら、僕は知性のない昆虫、妖精や妖怪の類かもしれない。それでもほんの少し分け前を、その神秘的感情のかけらに触れたい、そのうちに少しずつ感情が増えれば良いと思っていたのだけど、結果上手くいかず人間を傷つける事がある。今回恋人が僕に愛想を尽かしたのも、たぶんそういう事なんだろうと思う。無い知恵を絞って言葉を絞りだすと絞った知性は干からびていて、笑ったつもりの表情は貧しく鈍く見えていたらしい。

少ない感情を集めて過ごす日々が終わって、今僕は元々の自分の薄さを思い知らされながら、急に戻ってきた知性のない空間を永遠に落ちていく気分がする。重力は重く歩けない。重い記憶から逃れるために、知らない景色を求めて重いペダルを漕ぐ。
この身体に美しい毛皮が備わっていれば、風邪をひかずに済んだのだろうか。